【追悼】アントニオ猪木の記憶に残る3つの試合

【追悼】アントニオ猪木の記憶に残る3つの試合

2022年10月1日、前日にデビュー62周年を迎えたばかりのアントニオ猪木さんが永眠しました。享年79歳、波乱に満ちた人生でした。猪木さんに哀悼の意を表すると共に、ご冥福をお祈りしたいと思います。そこで今回は私の記憶に残る猪木さんの試合を3つ挙げていきます。

アントニオ猪木に対する思い

まず私自身の猪木さんに対する思いを示しておきたいと思います。私がプロレスを観るようになった時にはすでに猪木さんは全盛期を過ぎていたと思います。「猪木の全盛期は日本プロレス時代だ」という意見も聞いたことがありますが、少なくとも私が初めて見た試合から引退に向けて少しずつ坂を下っている状況でした。

幼少期の私は藤波辰爾選手のファンでした。そのため、どうしても藤波選手を中心に据えて猪木さんを見ていたように思います。藤波選手は正規軍でしたが、猪木さんとタッグを組んでいる姿よりも対角線に立っている姿が深く印象に刻まれています。そのため、藤波選手と心理的に同化していた幼少期の私にとって猪木さんは尊敬すべき師匠である一方、越えるべき壁でもありました。いつになっても憎らしいほど強くてうまい、そんな印象でした。ただ、今となっては「ありがとうございました」という言葉しかありません。

その上で、改めて猪木さんの試合で印象に残っているものを3つ挙げていきたいと思います。

アントニオ猪木&坂口征二 vs 藤波辰巳&木村健吾

1985年12月12日 宮城県スポーツセンター(85IWGPタッグリーグ優勝決定戦)

●アントニオ猪木&坂口征二 vs ○藤波辰巳&木村健吾

1985年、それまでのMSGタッグリーグに代わり第1回IWGPタッグリーグが行われました。リーグ戦第1位はブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカでしたが、両者がこの決勝戦をボイコットしてしまったためにリーグ戦2位の両チームによる優勝決定戦が行われたという経緯がありました。リーグ戦で坂口選手が左膝を負傷し、万全ではない状態でこの試合に挑みました。怪我の状態が悪かったのでしょう、坂口選手は試合中盤からほぼ戦闘不能となりました。試合はバックの取り合いから藤波選手がドラゴンスープレックスホールドで猪木選手から3カウントを奪い、勝利しました。

この試合が私の印象に残っているのは、まず第一に猪木選手が藤波選手からフォール負けしたためです。試合後半はほぼ2vs1となっていたものの、まさか猪木選手が負けるとは思っていないところでの敗北でした。

そして、フィニッシュがドラゴンスープレックスホールドだったところも印象に残っている理由です。藤波選手の代名詞ともいうべきドラゴンスープレックスホールドです。しかしながら、この試合で勝利を決めたのは1978年1月23日のMSGで行われたカルロス・ホセ・エストラーダ戦から数えても10試合前後です。そして私が初めてテレビで見たドラゴンスープレックスホールドであり、そして藤波選手にとっての最後のドラゴンスープレックスホールドでした。凱旋帰国当時は時々使っていたものの、危険すぎるということで禁じ手となってしまいました。この年の4月にストロングマシン1号選手に対してドラゴンスープレックスホールドで勝利したようですが、私はテレビで見た記憶がありません。そのため、藤波選手のドラゴンスープレックスホールドといえばこの試合のことを思い出してしまいます。

アントニオ猪木 vs 長州力

1988年7月22日 札幌中島体育センター(IWGPヘビー級王座挑戦者決定リーグ戦)

●アントニオ猪木 vs ○長州力

この試合はIWGP王者の藤波辰爾選手に対する挑戦権を懸けたリーグ戦として行われました。すでにこの時45歳で猪木さんはレスラーとして完全にピークを過ぎた状態だったといえるでしょう。さらにこの試合までの3ヶ月半ほどを欠場していたようです。コンディション的にも十分ではない状態での強行出場だったといえるでしょう。

この試合の強烈な印象として残っているのは、フィニッシュとなった後頭部へ放ったリキラリアットです。おそらくこの試合で初めて披露したのではないでしょうか。また、改めてワールドで確認してみたところ、この試合では正調のリキラリアットは出しておらず、倒れ込むような左からのラリアット、そして後頭部へのリキラリアットで勝負が決まっていました。この試合をテレビで観たときは、猪木選手を越えるためには普通のやり方じゃダメなんだ、ということを強く感じたように記憶しています。なお、この時の猪木さんは45歳、長州選手は36歳でした。

藤波辰巳 vs アントニオ猪木

1988年8月8日 横浜文化体育館(IWGPヘビー級選手権試合)

△藤波辰巳(c) vs △アントニオ猪木

長州選手に敗れたものの、リーグ戦を制して藤波選手の持つIWGPヘビー級王座への挑戦権を獲得したのは猪木さんでした。初めて猪木さんの引退が現実味を帯びてきたのはこの試合前後のように記憶しています。猪木さんがこの試合に負ければ引退ということを仄めかしたことで、当時はすでに実況から身を引いていた古舘伊知郎アナがこの試合の実況を行いました。この背景には「俺の引退試合はお前が実況してくれ」というかつて猪木さんと古舘アナとの間で交わした約束があったようです。

34歳でレスラーとして充実期に到達した藤波選手に対し、45歳で復帰直後という猪木さんのコンディションの差は明らかと思われました。しかし、この試合で猪木さんはレスラーとしての最後の輝きを放ったように見えました。肉体的には衰えているのでしょうが、それを見せないうまさがあったように思います。例えば試合中盤で猪木さんは片膝をついてアルゼンチンバックブリーカーを仕掛けたシーンです。猪木さんがアルゼンチンバックブリーカーを出したのはこのシーン以外でほとんど記憶にありません。ここでそれを出したのは、自らのパワーを見せつけるという思惑もあったのかもしれません。しかし通常の形で仕掛けるにはコンディション的にかなり負担だったため、片膝立ちでこれを放っていったのではないかと思います。そして、ギリシャ彫刻のようなその姿勢からは逆に力強さに満ち溢れた、そのような印象を受けました。

猪木さん最後のIWGP戦となったこの試合は60分時間切れドローで藤波選手が防衛に成功しました。当時は、やはり藤波選手には猪木越えができないのか、長州選手は勝つことができてどうして藤波選手は勝つことができなかったのかなどと考えました。しかし、今となってはこれが藤波選手にとっての猪木越えだったのだろうと思います。いや、そもそも藤波選手にとっては猪木越えという概念などそもそも存在しなかったともいえるかもしれません。今となっては、この試合で藤波選手は猪木さんと一体になった、猪木さんからバトンを引き継いだのではないかと感じてしまいます。私にとって間違いなく最も印象に残っている猪木さんの試合はこの60分時間切れ引き分けに終わった藤波vs猪木です。

そしてこの翌年の1989年に参議院議員となっとなった猪木さんは本格的にリングから離れ、引退へと突き進んでいくことになります。

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